すでに故人になられましたが、作家の外村繁さんは、少年時代
におじさんに預けられました。 ところが、そのおじさんは蛇を飼育
するのが趣味だったそうです。 それはまあいいとして、生きたカ
エルを蛇に与えて飼育するのを見た繁少年は、カエルがあわれで
ならなかったのです。 ついたまりかねた繁少年は、おじさんに強
意見(こわいけん)をします。
「おじさん、ぼく死ぬまで肉も魚も食べないから、カエルを蛇に呑
ませるのをやめてください」
おじさんは繁少年に反論します。
「よし、わかった。 おまえは野菜しか死ぬまで口にしないという
が、大根でもキャベツでもみな生きているのだぞ、水だって生きて
いるのだよ。 その証拠に死んだ(腐った)水を飲んだらおまえは
下痢するだろう。 どうする?」
繁少年は、おじさんの意地悪とも思える言葉に、悔しいが返事が
できません。 確かにおじさんのいうとおり、腐敗していないものは
みな生きているのです。 命を殺すのがかわいそうだとしたら、ぼ
くはおじさんのいうとおり、水一滴も米一粒も口に入れることはでき
ないわけだ。 するとぼくは死ぬしかない、しかし死ぬのはいやだ・・
・・・と自問自答しているうちに、では、
「生きるとは、どういうことか」 という問題につきあたります。
繁少年は、、子どもながらこのような考えを押し進めていった結果
が乗っかっている」 事実に気がついた。 といいます。 いわゆる
「生を明らむ(生きる事実を明らかに知ること)」 とは、
”おかげさま” がわかることでありました。
無数の命を殺さなければ自分一人も生きられない。 という厳粛
な事実を体験すれば、むだな殺生もできなくなるだけでなく、命あ
るものを大切に生かしていこうとの 「不殺生戒」 の教えにも通じ
ます。 他の命はもちろん自分の命も大事にして、自分の命だか
らといって気ままに使えない道理もわかるでしょう。 それは自分
だけの力ではとても生きていけない、多くの支えによるおかげで
生きられるのであるから、社会にできるだけ多く還元しよう。 と
いう生き方が望ましいのです。
しかし命には、限りがあります。 その極限が申すまでもなく、
「死」 です。 だれも避けることのできない死と、対面したとき、
この悲しみと苦しみとを逆転して、限られた時間を価値あらしめる
のが、すぐれた人生観であり、信心というものです。